2018年9月25日火曜日

児玉先生

お彼岸のご縁が終わりました。
お参りくださった方ようこそでした。

1日目楠元地区
法話   児玉先生、若院、住職
2日目真光寺本堂
法話   児玉先生、若院
3日目真光寺本堂
法話   児玉先生、住職




この度は法務員を20年もの間勤めてくださった児玉先生の最後のご法話のご縁。
ですので、三日間同じお話をしていただきました。

高江町にて、浄土真宗のご門徒の家に生まれ育った児玉先生。


お坊さんになったきっかけは祖母のお念仏でした。


なんまんだぶ。なんまんだぶ。よくお念仏していた祖母。

お念仏とは人が亡くなった時に悲しい時苦しい時にするものだと考えていた児玉先生。
しかし、祖母のお念仏は違いました。
悲しい時苦しい時だけじゃない。子どもの結婚やらのお祝いの時にでもお念仏がこぼれていました。



祖母のお念仏は嬉しい時にも悲しい時にも出る。いったい、あれはなんで何だろうか?

その疑問が児玉先生の仏縁となり、お坊さんとなるまでお育てとなったそうです。


真光寺での法務員としてのお勤めはこれで終わりですが、皆さんと一緒にお聴聞はこれからも変わらずさせていただき、皆さんと一緒に阿弥陀様に変わらずお育ていただきますとお話しくださいました。



20年もの間、お疲れ様でした。寺族、真光寺門徒共々にお世話になりました。



2018年9月21日金曜日

寺巡り

長崎の勉強会にいろいろくっつけたら、寺巡りのような旅行に。笑



まず熊本、菊池の西覚寺



歴史の古いお寺さん。


睡蓮の季節は綺麗でしょうね。


熊本の西覚寺にいらなくなった火鉢を3ついただきました。これが目的。





そして、長崎の母の里、楽常寺へ向かいました。

途中、湧き水の街、島原に寄り道。






寒ざらしの店『銀水』へ。







昭和の香りがします。
湧き水で魚を洗い、さばいているおばあちゃんの姿も。



これが寒ざらし。
品のある甘さで美味しいです。





楽常寺ですこしゆっくりしてから、長崎教務所で勉強会。
楽常寺で一泊させていただきました。

お朝事。





次の日、嬉野の明覚寺へお聴聞に。
お彼岸のご縁。
御講師は岩国の筑波先生。





そして、波佐見の叔母に会って帰りました。



真光寺も彼岸会が勤まります。
22日13時半〜  楠元地区
23日・24日13時半〜   真光寺本堂

ぜひ、ご縁にあってくださいね。















2018年9月12日水曜日

前回の

悲しみを通さないと  見えてこない世界がある


作者不明と書いていましたが、平野恵子さんという方でした。


腎癌という病気の縁により、亡くなっていかれた方でした。
そして、ご法義のある方でした。

腎癌という病気のつらさ、3人の子どもと別れていかなければならない悲しみ。。

その縁により、見えてくる世界をいただけた言葉だったようです。

母の言葉を思い出します。

世間の人は自分が死に直面したら悩む。
でも、お母さんはお浄土があってよかった

と。


膵臓癌という病気、家族と別れていかなければならない悲しみを縁として、母の味わいも深くなっていきました。
悲しみ、苦しみ、つらさは仏縁があっても変わりません。
情で生きているものが人ですから。
しかし、その悲しみ苦しみつらさをほっとくことのできない仏様がいらっしゃいました。
その仏様に出遇えたときに、同じ悲しみ苦しみつらさであっても、見えてくる景色が違ってくるでしょう。

2018年9月2日日曜日

お茶会

お寺にて初のお茶会。





まずは3分くらいの短いお勤め。
そして、それから短いご法話。





とある茶道の先生が大学の学生を美術館に。
そこには国宝級の抹茶茶碗の数々。

学生が言ったそうです。
「どれもこれも薄汚いですねー。こんな汚らしい茶碗で本当にお茶を飲むのですか? 自分なら絶対に嫌です!」
と。

学生たちにはそう見えるのかと驚いたそうです。


学生たちはシミや変色を「劣化」と見ていますね。



私も焼物が好きなので、窯元などウロウロすることが好きなのですが、焼物には陶器と磁器があります。

鹿児島の薩摩焼は陶器です。

陶器は磁器と比べ、均一に作られてるようにみえて、ムラがあったり、形が不均一でひとつひとつが表情が違います。
それを嫌がる方もいるでしょう。

また、陶器の茶碗は磁器の茶碗とは違い、使えば使うほどに変色していきやすいです。
貫入などのヒビなどに抹茶が入り込み、シミにもなっていきます。


茶道家は抹茶のシミや変色を「劣化」とは見ていかないそうです。
使い込まれた茶碗を「よく育っている」と褒め、シミを景色と呼び、それがあることを喜ぶそうです。



芸能人がシワやシミができたときに「劣化」とすぐにメディアや世間は言いますね。
しかし、お聴聞よくする方でシミやシワを「これは勲章よ」とおっしゃる方がいました。
「劣化」と「勲章」じゃ、えらい違いですね。




阿弥陀様のお心をいただいたときに、歳をとるということをどのように味わうのか。





ご門徒の白男川さんの生前のお話。
毎回、法要でお聴聞を楽しみにしていた白男川さん。病気や自分の足ではもう歩けなくなり、なかなかお参りできなくなっていきました。

ある日のこと。
白男川さんの友人が白男川さんを法要に連れてみえていました。
嬉しそうに座っている白男川さん。

その姿をみた住職が話しかけました。
住職
「お久しぶりです。白男川さん!ようこそでしたねー。」

白男川さん
「〇〇さんが連れてきてくださいました。また、お聴聞できることが嬉しいです。」

住職
「なかなかみえなくなったから、心配してました。最近(調子は)どうですか?」

白男川さん
おかげさんで、育ちざかりでございます。

その言葉に住職、また周りにいたご門徒さん方は感動されたそうです。
小学生や中学生で育ちざかりは当たり前。
しかし、もう一人では歩けない白男川さん。
病気もしていますし、もう高齢のおじいちゃんです。
その方から満面の笑みで「育ちざかり」と。



死んで終わりの人生なれば、劣化でしょう。
しかし、死んだら、生まれる世界があるのであれば、育ちざかりであり、シミひとつが「勲章」のようなものになります。
ひとつ歳をとり、仏様の味わいが変わる。
ひとつ病気になり、仏様の味わいが変わる。
ひとり愛した人親しい人と別れ、仏様の味わい変わる。
老、病、死に意味を浮かび上がらせていく。
私どもがさまざまな仏縁に遇い、お念仏者となっていく姿に、阿弥陀様は「よう育っているなー」と喜んでくださっています。

お浄土の仏となる身へと今まさに「育ちざかり」の一瞬一瞬と味わっていきたいですね。



というような内容の法話を。










ご講師部屋に移動。
妹が浴衣を着て、お茶会を。








敷居の低いお茶会なので、ワイワイガヤガヤしながら。
作法は裏千家のお作法を。
足の悪い方はイスでお茶を楽しみました。


お茶会参加したい方は、電話またはホームページのお問い合わせからでも大丈夫ですので、ご連絡ください。










2018年8月27日月曜日

のんの会のお泊まり会 2日目

2日目。

7時半起床。。。の予定が子どもたちは6時頃起きました。笑




早く起きたので、朝食後の予定だった掃除を洗顔と歯磨きの後に。








そして、これも急遽。スーパーボールすくい。
いつでもできるようにストックしててよかったです。









一人3回ずつ。







そして、3回終わったら、一番大きなスーパーボールに一回ずつ挑戦。






そうこうしているうちに8時のお朝事の時間に。
住職も妹も起きてきて、一緒にお勤め。



お朝事を習慣にしているご門徒さん方も一緒に。
今日は7人くらいでした。








そして、住職の法話。
目に見えないものの中に本当に大切なものがあるんだよというお話。
お父さんお母さんがみんなを思う親心。
あなたのいのちを決して見捨てないぞという仏心。






それから朝ごはん。


子どもたちから「遅っ!」という声。
子どもたちにとっては遅いご飯ですね。


しかし、お寺では仏様にお供えする前にご飯を食べることはありません。
(学生時代はお朝事後の朝食では学校に間に合わないので、お仏壇に手を合わせてから、朝食を七時過ぎにいただいていました。)



朝食。妹が用意してくれました。






宿題の時間。一時間。






宿題終わった子はお絵かきタイム。

お絵かき組にお手本作成。




ポケモン世代ですが、全くわからない生き物。。
意外とうまく描けたので載せます笑


宿題後、ゲーム遊び。








帰る前にお菓子のお土産。




11時ちょい過ぎに解散。

おかげさまで私自身楽しく、子どもたちとの二日間を過ごせました。
お寺の本堂に泊まるという非日常的な体験が子どもたちにとって、思い出となってくれたら嬉しいです。




いつもはのんの会の感想文はその子の判断にまかせ自由ですが、今回のお泊まり会だけは書いてくるようにお願いしました。
紙をなくしたら、別の紙でもいいですので、よろしくお願いします。









のんの会のお泊まり会 1日目

26日・27日とのんの会のお泊まり会。



1日目から更新します。






15時集合でまずはお勤め。



そして、ご法話。


読売新聞に掲載された小学校六年生の詩を縁にご法話させていただきました。



『命があと5日しかなかったら』
1日目には親友に手紙を書く
2日目には中国の友達に手紙を書く
3日目には家族に手紙を書く
4日目には自分の似顔絵を描く
そしてふつうに過ごす
最終日・・・
たくさんの人の中で
仏様の夢を見る


感性豊かな詩ですね。
大人でも難しい自分の死を見つめることのできる目。
そして、自分のためではなく、他のもののために時間を使う優しさ。
死ぬのではなく、生まれて行くことのできるお浄土をいただいてる姿。

ちなみに「往生」という言葉は「往き生まれる」。死んで終わりの人はこの言葉が使えないですね。



あと5日しかなかったら何がしたい?
と聞くと
ゲームを毎日する!
と健全な子どもの反応。笑

他の者に時間を使う大切さ。
そして、死んで終わりじゃない、仏さまの世界に生まれるというお話。













ご法話後、プールへ
ほぼ貸し切り状態。
私は平泳ぎで腕をつる。。運動不足ですね。笑





帰ってから6時よりバーベキュー。
ご門徒の方々に手伝っていただきました。
保護者の方も数名参加有難うございました。















↑真ん中にいらっしゃる方がお肉を持ってきてくださいました。
全国の牛のオリンピックで金メダルをとったこともある方です。
本当に美味しいお肉でした。
有難うございました。





スイカ割り。



小さい順に。



最後に中学生が真っ二つに割ってくれました。



花火。















打ち上げ花火もしました。
最近の打ち上げ花火のクオリティーの高さに驚きました。

打ち上げることに必死で写真を撮り忘れました。


お風呂は白和温泉へ。


上映会。



保育園から借りてきたプロジェクター作動せず、、、。
急遽、テレビで。



上映会が終わってから、よし寝ようとみんなに言った時に

みんなから「肝試ししたーい!」
との声。


急遽、肝試ししました。
6人くらいが参加。
肝試ししたーいと言った子の中でも、いざやるとなると怖がって出来ない子も。


ろうそくの灯りを頼りに二人ずつ真っ暗な納骨堂に行き、お線香を一本持ってくるというシンプルな肝試し。




動画はロウソクの灯りだけなのでほとんど真っ暗ですが、怖がっているのはよくわかります。笑
MVPはまさかの小学一年生の女の子。笑笑
(動画の最後の子)

12時ごろ、就寝。


(限定公開のためYouTubeで動画を探しても出てきません。動画をほしい方は言ってくださいね。)

2日目へ続く。。。













2018年8月20日月曜日

ムネ

今日は親戚の家の上棟式でした。


棟という字。

同じ発音のものには共通点があるものが多いです。

棟の
読み方は「ムネ」ですね。


他にはこの発音のものには

胸。

宗。

があります。




共通点は何か?
それは「中心」
どれもが、重要なものということ。


→建物にとって大事なものです。だからこその上棟式。これがないと建物は建たない。

→「胸に刻む」という言葉があるように頭より胸を中心と考えることが多いですね。心を味わうときも、私たちは胸のところで心を味わいます。心を人間の中心と考えてもいいかもしれません。

→広辞苑で引くと「おおもと。主として尊ぶべきこと。」おおもと、主とするということは中心ですね。






宗教という言葉はおおもととする教えということになります。
ムネとする教え。人生の中心とする教え。


このように考えると無宗教という言葉に違和感を感じないでしょうか?
本来は無宗教という言葉はありません。生きている限り、人間は何かに影響され、何かを中心に生きています。何かをよりどころとして生きているのが人間です。


無宗教のことを本来の表現で言うならば、自分教という言葉になります。
自分を中心とした教えということ。
自分をよりどころとしていく。自分が大事にしているものをよりどころとしていく。

家族。

お金。

健康。

仕事。

などを中心としていくのかもしれません。


皆さんが大事だとどれもが頷けるものだと思います。
私も大事にしています。


しかし、どれもがいつまでも存在してくれるものではありませんね。
縁があれば、失っていくものであり、死んでいくときには全て手放していくもの。。。
悲しいことにこれが現実です。執着していればしている分だけ失った時の悲しみは大きい。


家族、お金、健康、仕事どれもが大切にすべきものですが、それをよりどころにしてしまったならば、むなしく人生終わっていくかもしれません。
それこそ、「生きているうちが花だ。死んだら何もならん」という人生観で、死を不幸とみて、むなしく終わっていく。。。


自分の人生に「有難い人生でありました。尊い人生でした。」と手が合わさるものに出遇うことが本当に大切なことです。


この世の縁が尽きていくとき、何をよりどころとしていくのか。


私の母は健康を大事にしてはいたけれども、健康をよりどころとはしていませんでした。
「ガンになって嬉しいとは思わないけど、不思議にも有難いと思える日々を送らせてもらっているよ」と言っていました。健康をよりどころとしていたならば絶対に出ない言葉です。

また、「お浄土があってよかった」と言って、亡くなっていきました。

また会える世界をいただいている。そして、死んで終わりではない。生まれていく世界があるんだ。
私の命を見放さなかった阿弥陀さまがご用意してくださった。目には見えなくても、いつでもどこでも私にはたらきかけてくださっています。
その阿弥陀さまをよりどころとしていく。それが浄土真宗という教えです。