澍法会に講師として招いていました福田康正先生。
真光寺の後、出水市のお寺にお取次ぎに行くということでお聴聞に。
お寺さんは西恩寺さん。
福田先生はある日のお寺の掲示板に
仕合わせは
他を慈しむ心から生まれ、
不幸とは
自己中心の心がもたらす
と書かれました。
また、このような話をしてくださりました。
授業参観の日。ある男の子が
「お父さんが嫌いです。お酒を飲んで酔っ払って帰ってきて、お母さんや妹や僕にあたります。お父さんなんかはやく死んだらいい」
と発表した。
クラス中が驚いた。
この件は私にまかせてください。と母が担任の先生に言う。
ある日、みんなでピクニックに行った。
お弁当を食べたり、遊んだり楽しんでいた。
そんな中、
男の子がある一点を見つめたまま動かないでいた。
その見つめている先には土木作業をして頑張っている父親の姿があった。
上司に怒られている父の姿もあったそうだ。
それから男の子は様子が変わった。
自らお風呂を沸かして、父親の帰りを待つようになった。
酔っ払って帰ってきた父親に恐る恐る小さな声で「おかえりなさい」と一言。
それからというもの父親の様子も変わった。
お酒を控えるようになり、たまに子どもたちにお土産を買って帰るようになった。
家族、恋人、友人であっても、この男の子のように行動することは難しいですね。
自分のことしか考えてなかった男の子、父親。
しかし、父親の一生懸命仕事をしてる姿に心動かされ、男の子の行動が二人の関係をかえていきました。
相手を想う、慈しみの心で。
私たち人間には限界がある。身内のような近い人間にしか慈しみの心を持つことが困難。いや、身内に対しても慈しみの心で接することは困難です。
それを考えると、この男の子の行動は尊く、有難く、立派な行動だと思います。
慈眼(ジゲン)、慈しみの眼をもって、常に私たちのことをみてくださっている方が仏さまです。
すべてのものに慈しみの心をもてる方を仏さまと言います。
この世の縁が尽きた時は、遺された方々に阿弥陀様と同等のはたらきをしていきます。
慈しみの眼、慈しみの心をもって、いつでもどこでも見守り、はたらく仏様です。
今生きている我々も、自分のことだけを考えるのではなく、
その仏様に対して、せめて御恩報謝の日暮しをしていきたいものです。それがそのまま亡くなった方々がよろこんでくださることだろうと思います。
仕合わせは
他を慈しむ心から生まれ、
不幸とは
自己中心の心がもたらす