2018年8月20日月曜日

ムネ

今日は親戚の家の上棟式でした。


棟という字。

同じ発音のものには共通点があるものが多いです。

棟の
読み方は「ムネ」ですね。


他にはこの発音のものには

胸。

宗。

があります。




共通点は何か?
それは「中心」
どれもが、重要なものということ。


→建物にとって大事なものです。だからこその上棟式。これがないと建物は建たない。

→「胸に刻む」という言葉があるように頭より胸を中心と考えることが多いですね。心を味わうときも、私たちは胸のところで心を味わいます。心を人間の中心と考えてもいいかもしれません。

→広辞苑で引くと「おおもと。主として尊ぶべきこと。」おおもと、主とするということは中心ですね。






宗教という言葉はおおもととする教えということになります。
ムネとする教え。人生の中心とする教え。


このように考えると無宗教という言葉に違和感を感じないでしょうか?
本来は無宗教という言葉はありません。生きている限り、人間は何かに影響され、何かを中心に生きています。何かをよりどころとして生きているのが人間です。


無宗教のことを本来の表現で言うならば、自分教という言葉になります。
自分を中心とした教えということ。
自分をよりどころとしていく。自分が大事にしているものをよりどころとしていく。

家族。

お金。

健康。

仕事。

などを中心としていくのかもしれません。


皆さんが大事だとどれもが頷けるものだと思います。
私も大事にしています。


しかし、どれもがいつまでも存在してくれるものではありませんね。
縁があれば、失っていくものであり、死んでいくときには全て手放していくもの。。。
悲しいことにこれが現実です。執着していればしている分だけ失った時の悲しみは大きい。


家族、お金、健康、仕事どれもが大切にすべきものですが、それをよりどころにしてしまったならば、むなしく人生終わっていくかもしれません。
それこそ、「生きているうちが花だ。死んだら何もならん」という人生観で、死を不幸とみて、むなしく終わっていく。。。


自分の人生に「有難い人生でありました。尊い人生でした。」と手が合わさるものに出遇うことが本当に大切なことです。


この世の縁が尽きていくとき、何をよりどころとしていくのか。


私の母は健康を大事にしてはいたけれども、健康をよりどころとはしていませんでした。
「ガンになって嬉しいとは思わないけど、不思議にも有難いと思える日々を送らせてもらっているよ」と言っていました。健康をよりどころとしていたならば絶対に出ない言葉です。

また、「お浄土があってよかった」と言って、亡くなっていきました。

また会える世界をいただいている。そして、死んで終わりではない。生まれていく世界があるんだ。
私の命を見放さなかった阿弥陀さまがご用意してくださった。目には見えなくても、いつでもどこでも私にはたらきかけてくださっています。
その阿弥陀さまをよりどころとしていく。それが浄土真宗という教えです。