今年のお寺の掲示板大賞。
『おまえも死ぬぞ』
釈尊
その通りです。しかし、分かって生活していないお互いですね。どこか他人事のように聞いてしまう自分がいます。
それをドキッとさせ、自覚させるような法語掲示板。
『無量寿経』というお経に「見老病死 悟世非常」という言葉があります。
お釈迦様は老病死を見て、世の非常を悟った
ということ。
もっと言うならば、
今のこの時がいつ死ぬかわからない非常事態である
ということ。
それを他人事ではなく、自分の問題としていった方がお釈迦様です。
その方が説いた教えが仏教。
ですので、浄土真宗のお寺は御守りは置いていません。
交通安全、家内安全などなど。
お寺にはどれひとつありません。
むしろ、御守り持っても死ぬぞという教え。
御守りにすがる気持ちも分からなくはないですが、現実は縁が整ってしまったなら、どうなるか分からないいのちを今生きているお互いです。
そして、どうしようもない老病死の縁。
その縁触れたときに、依りどころとして何をいただいているのかが大切です。
だからこそ、生きているうちに仏様のお話を聞かなければならないのです。亡くなってからでは遅い。。。
目に見えるものをすべて壊れゆくもの。お金、家族、健康、それらをあてにしがちです。
しかし、壊れゆくものを依りどころとしたならば、自分の身体が言うことを聞かなくなったとき、死んでいかねばならないときに、むなしい思いをしてしまうかもしれません。
しかし、壊れることのない間違いないものを依りどころとしていただいていたのであれば、同じ状況でも、悲しみ苦しみの中からでも慶べる世界が聞こえてくることでしょう。
そのような感性を育てていく場所がお寺でのお聴聞の場です。
お釈迦様は老病死を現実を見て、世の非常を悟り、今、私に依りどころとなる阿弥陀様という仏様を教えてくださった。お浄土というまた会える世界があるのだよとそのはたらきにお育てをいただいていく。それがお聴聞。
『おまえも死ぬぞ』というお釈迦様の言葉が他人事ではなく、私のことと聞けたときに、お寺でお話を聞いてみようと思う第一歩です。
今年はもう法座、法要はありませんが、また来年一緒に聞かせていただきましょう。