2018年9月30日日曜日

9月のんの会

9月ののんの会。

今回は私自身の台風の思い出から我執という煩悩のお話。

みんなも今日の運動会が台風で延期になって嬉しい子もいれば、悲しい子も。

それぞれに自分のフィルターを通して周りを見て、自分のものさしで物事を測っています。

好きなもの、嫌いなもの。
好きな人、嫌いな人。
良い天気、悪い天気。

無意識に使っている言葉ですが、

(自分にとって)好きなもの、(自分にとって)嫌いなもの。
(自分にとって)好きな人、(自分にとって)嫌いな人。
(自分にとって)良い天気、(自分にとって)悪い天気。


そのようにしてしか生きていくことができないお互いです。私もその一人。
だから、ぶつかったりしてしまう。
好きな人、嫌いな人がいるのは仕方ないです。煩悩を持った人間だから。
しかし、嫌いな人がいたとしても、その人のことを好きな親や友人や恋人などのことを考えるとイジメや殺人起きないはずですね。。
その感性があると思い留まることができます。

誰もが誰かにとっての大切な人。
仏様からみても、大切な大切な一人一人であると聞かせていただきます。






今日はいつものようにゲーム遊びをしました。









2018年9月28日金曜日

エリート

福井新聞の8月23日のコラム。
今頃載せますが、、笑

良いコラムでした。












価値観を変えれば生きやすくなる。ほんとその通り。



ひび割れ壺の絵本を思い出しますね。









2018年9月25日火曜日

児玉先生

お彼岸のご縁が終わりました。
お参りくださった方ようこそでした。

1日目楠元地区
法話   児玉先生、若院、住職
2日目真光寺本堂
法話   児玉先生、若院
3日目真光寺本堂
法話   児玉先生、住職




この度は法務員を20年もの間勤めてくださった児玉先生の最後のご法話のご縁。
ですので、三日間同じお話をしていただきました。

高江町にて、浄土真宗のご門徒の家に生まれ育った児玉先生。


お坊さんになったきっかけは祖母のお念仏でした。


なんまんだぶ。なんまんだぶ。よくお念仏していた祖母。

お念仏とは人が亡くなった時に悲しい時苦しい時にするものだと考えていた児玉先生。
しかし、祖母のお念仏は違いました。
悲しい時苦しい時だけじゃない。子どもの結婚やらのお祝いの時にでもお念仏がこぼれていました。



祖母のお念仏は嬉しい時にも悲しい時にも出る。いったい、あれはなんで何だろうか?

その疑問が児玉先生の仏縁となり、お坊さんとなるまでお育てとなったそうです。


真光寺での法務員としてのお勤めはこれで終わりですが、皆さんと一緒にお聴聞はこれからも変わらずさせていただき、皆さんと一緒に阿弥陀様に変わらずお育ていただきますとお話しくださいました。



20年もの間、お疲れ様でした。寺族、真光寺門徒共々にお世話になりました。



2018年9月21日金曜日

寺巡り

長崎の勉強会にいろいろくっつけたら、寺巡りのような旅行に。笑



まず熊本、菊池の西覚寺



歴史の古いお寺さん。


睡蓮の季節は綺麗でしょうね。


熊本の西覚寺にいらなくなった火鉢を3ついただきました。これが目的。





そして、長崎の母の里、楽常寺へ向かいました。

途中、湧き水の街、島原に寄り道。






寒ざらしの店『銀水』へ。







昭和の香りがします。
湧き水で魚を洗い、さばいているおばあちゃんの姿も。



これが寒ざらし。
品のある甘さで美味しいです。





楽常寺ですこしゆっくりしてから、長崎教務所で勉強会。
楽常寺で一泊させていただきました。

お朝事。





次の日、嬉野の明覚寺へお聴聞に。
お彼岸のご縁。
御講師は岩国の筑波先生。





そして、波佐見の叔母に会って帰りました。



真光寺も彼岸会が勤まります。
22日13時半〜  楠元地区
23日・24日13時半〜   真光寺本堂

ぜひ、ご縁にあってくださいね。















2018年9月12日水曜日

前回の

悲しみを通さないと  見えてこない世界がある


作者不明と書いていましたが、平野恵子さんという方でした。


腎癌という病気の縁により、亡くなっていかれた方でした。
そして、ご法義のある方でした。

腎癌という病気のつらさ、3人の子どもと別れていかなければならない悲しみ。。

その縁により、見えてくる世界をいただけた言葉だったようです。

母の言葉を思い出します。

世間の人は自分が死に直面したら悩む。
でも、お母さんはお浄土があってよかった

と。


膵臓癌という病気、家族と別れていかなければならない悲しみを縁として、母の味わいも深くなっていきました。
悲しみ、苦しみ、つらさは仏縁があっても変わりません。
情で生きているものが人ですから。
しかし、その悲しみ苦しみつらさをほっとくことのできない仏様がいらっしゃいました。
その仏様に出遇えたときに、同じ悲しみ苦しみつらさであっても、見えてくる景色が違ってくるでしょう。

2018年9月2日日曜日

お茶会

お寺にて初のお茶会。





まずは3分くらいの短いお勤め。
そして、それから短いご法話。





とある茶道の先生が大学の学生を美術館に。
そこには国宝級の抹茶茶碗の数々。

学生が言ったそうです。
「どれもこれも薄汚いですねー。こんな汚らしい茶碗で本当にお茶を飲むのですか? 自分なら絶対に嫌です!」
と。

学生たちにはそう見えるのかと驚いたそうです。


学生たちはシミや変色を「劣化」と見ていますね。



私も焼物が好きなので、窯元などウロウロすることが好きなのですが、焼物には陶器と磁器があります。

鹿児島の薩摩焼は陶器です。

陶器は磁器と比べ、均一に作られてるようにみえて、ムラがあったり、形が不均一でひとつひとつが表情が違います。
それを嫌がる方もいるでしょう。

また、陶器の茶碗は磁器の茶碗とは違い、使えば使うほどに変色していきやすいです。
貫入などのヒビなどに抹茶が入り込み、シミにもなっていきます。


茶道家は抹茶のシミや変色を「劣化」とは見ていかないそうです。
使い込まれた茶碗を「よく育っている」と褒め、シミを景色と呼び、それがあることを喜ぶそうです。



芸能人がシワやシミができたときに「劣化」とすぐにメディアや世間は言いますね。
しかし、お聴聞よくする方でシミやシワを「これは勲章よ」とおっしゃる方がいました。
「劣化」と「勲章」じゃ、えらい違いですね。




阿弥陀様のお心をいただいたときに、歳をとるということをどのように味わうのか。





ご門徒の白男川さんの生前のお話。
毎回、法要でお聴聞を楽しみにしていた白男川さん。病気や自分の足ではもう歩けなくなり、なかなかお参りできなくなっていきました。

ある日のこと。
白男川さんの友人が白男川さんを法要に連れてみえていました。
嬉しそうに座っている白男川さん。

その姿をみた住職が話しかけました。
住職
「お久しぶりです。白男川さん!ようこそでしたねー。」

白男川さん
「〇〇さんが連れてきてくださいました。また、お聴聞できることが嬉しいです。」

住職
「なかなかみえなくなったから、心配してました。最近(調子は)どうですか?」

白男川さん
おかげさんで、育ちざかりでございます。

その言葉に住職、また周りにいたご門徒さん方は感動されたそうです。
小学生や中学生で育ちざかりは当たり前。
しかし、もう一人では歩けない白男川さん。
病気もしていますし、もう高齢のおじいちゃんです。
その方から満面の笑みで「育ちざかり」と。



死んで終わりの人生なれば、劣化でしょう。
しかし、死んだら、生まれる世界があるのであれば、育ちざかりであり、シミひとつが「勲章」のようなものになります。
ひとつ歳をとり、仏様の味わいが変わる。
ひとつ病気になり、仏様の味わいが変わる。
ひとり愛した人親しい人と別れ、仏様の味わい変わる。
老、病、死に意味を浮かび上がらせていく。
私どもがさまざまな仏縁に遇い、お念仏者となっていく姿に、阿弥陀様は「よう育っているなー」と喜んでくださっています。

お浄土の仏となる身へと今まさに「育ちざかり」の一瞬一瞬と味わっていきたいですね。



というような内容の法話を。










ご講師部屋に移動。
妹が浴衣を着て、お茶会を。








敷居の低いお茶会なので、ワイワイガヤガヤしながら。
作法は裏千家のお作法を。
足の悪い方はイスでお茶を楽しみました。


お茶会参加したい方は、電話またはホームページのお問い合わせからでも大丈夫ですので、ご連絡ください。