2019年2月25日月曜日

2月のんの会

23日はのんの会でした。
喉に違和感があり、お勤めで声を出すのがきつい中、子どもたちが大きな声でお勤めしてくれて助かりました。





今日のお話。



この絵をきっかけにお話。
新聞広告クリエーティブコンテストの最優秀賞受賞の絵です。


「相手の立場になって考えることが大切」

私自身も先生や親に小さい頃よく言われた言葉です。
見方を変えれば、桃太郎の物語も違った見え方をします。




誰にだって嫌いな人はいます。

しかし、そこで誹謗中傷、いじめ等の行動を嫌いな人に対してするのか、しないか。
その人に注がれているたくさんの愛情や願いを読み取ることができたならば、行動は踏みとどまるはずです。


しかしそれは大人でも難しいです。
有名人が何か罪を犯したら、世間からのバッシング。
ヤフニュースのコメントや店等のクチコミの中には言葉の暴力は少なくはないです。


嫌いな人。
悪い人。
罪を犯した人。

その人たちにも親や家族がいます。
その人たちのことを大切に思っている方々がいます。
罪を犯した人を裁くのは法律。
人であってはならないような気がします。



桃太郎が退治した鬼。鬼も悪いことをしたかもしれません。


しかし、その鬼にも家族がいたのかもしれません。
この絵のように、退治された鬼には子どもがいたのかもしれません。


この絵の子どもの鬼。その子から見たら、桃太郎の姿は鬼のように見えることでしょう。



私の頭にも見えない角があります。 
(実は私の中に鬼があると仏教では説きます。青鬼=貪欲、赤鬼=瞋恚、黒鬼=愚痴)
知らず知らずのうちに誰かを傷つけてしまうような危うい存在。

私の本当の姿を知らせてくれるものに出会うことが大切です。






さてさて、今回は快晴でしたので、境内で遊びました。
鬼ごっこや大なわとび。

久しぶりになわとびをしましたが、子どもの元気さに途中からついていけなくなりました。

なわとびがこんなにきついとは、、





そして、おやつをいただき、その後は本堂の中で遊びました。


写真は新聞のばしゲーム。
一つの新聞をちぎりながらのばしていくゲーム。
誰が時間内で長い新聞を作れるか競いました。





2019年2月15日金曜日

永代経法要




13時半からご満座。

春季永代経、残すところ最期のご縁です。
ぜひ、ご縁にあってください。


ご講師は舟川宏顕先生。

2019年2月8日金曜日

ロゴ





ロゴを作ってみました。
モダンでシンプルに。
よく見たら、真光寺の「真」の字。

のんのコーヒーがなくなったので、新デザイン作成中。


2019年2月5日火曜日

節分

2月3日は節分でしたね。

鬼は外。福は内。

節分での掛け声。
面白い投稿サイトを見つけました。


それは

〇〇は内。〇〇は外。とそれぞれ〇〇に入れて投稿。



●老いは外!ハリは内!

女性が読んだのでしょうか。


●俺は外!嫁は内!

悲しいご主人のことば。


●親父は外!他は内!

これまた悲しい、、、


●虫は外!ペットは内!

同意してしまう私がいます


●善人顔は外!本性は内!

核心をついてますね



●よそはよそ!うちはうち!

〇〇君のお家はゲームの時間が2時間なんだよ!
と子どもに言われた母の返し。


●死は外!生は内!

生と死を別のものと考えるとこのように言うでしょうね。




〇〇は外!〇〇は内!

結局は自分の都合。嫌なことはよそ様へ。良いことは自分へ。
これが私の持つ我執という煩悩。。。
















以前こんなものもブログに書きました。



2019年2月4日月曜日

保育園のコラム

今月のことばで載せたスヌーピーの言葉。

その言葉で保育園のコラムを書きました。







 「安心というのは車のうしろの席で眠ることさ。前の席には両親がいて、心配事はなにもない。でもね、ある時、その安心は消え去ってしまうんだ。君が前の席にいかなきゃならなくなるんだよ。そしてもういない両親の代わりに、君が誰かを安心させる側になるんだ。」

 スヌーピーに出てくる名言は多いが、この言葉もそのひとつ。

実は「安心」という言葉は仏教用語であり、仏教では「あんじん」と読みます。

「仏様を信じなさい。仏様を信じている。」とは浄土真宗では言いません。それは親子の関係に少し似ているのかもしれません。わざわざ親に「お父さんのことを信じているからね」「お母さんのことを信じているよ」と言う子どもはあまり見たことがないです。むしろ言われた場合は疑われていると感じた方がいいのかもしれません。

親の子どもに対する一途で見返りを求めない愛情がいつのまにやら子どもの安心となっていきます。この人だけは私のことを見ていてくれる、想ってくれているという安心の心が子どもの中に育っていくのでしょう。

そこにはもう「信じている」という言葉すらも必要でなくなるのです。それが本当の安心。

「子どものために。子どものために。」とただひたすらに愛情を注ぐ親が傍にいるだけで安心していけます。

みなさんが小さい頃そうだったように。

 






阿弥陀様が私のために常にはたらいてくださっている。そこに気付けた時に、安心をいただき、手を合わせる身にお育ていただくのでしょう。

そこに「信じている」という言葉は必要なく、その手を合わせ、お念仏申す身そのまんまがご信心の姿といただいていきます。

そして、こちらの心すらも問わないよという阿弥陀様。

ただ素直にお念仏申していきたいものですね。

 

 

2019年2月3日日曜日

ことば

安心というのは車のうしろの席で眠ることさ。前の席には両親がいて、心配事はなにもない。でもね、ある時、その安心は消え去ってしまうんだ。君が前の席にいかなきゃならなくなるんだよ。そしてもういない両親の代わりに、君が誰かを安心させる側になるんだ。


                                                   (スヌーピーより)