新しいお友達が2人来てくれました。
元気な一年生の男の子たちがのんの会の仲間に。
6年生の女の子が1年生の子たちに優しく教えている姿を見て、ほっこり。
のんの会のことを聞かれたので、ここに少し書かせていただきます。
のんの会は仏さまのお話を聞き、いっぱい遊ぶ会です。
習字やピアノ等の習い事とはまったく違います。何か能力を身につける会ではないです。
しかし、心が育つ会ではあると思っています。
現在、満20歳以上の者を「成人」とされています。
この「成人」という言葉は「人に成る」と書きます。
なぜ20歳で?
それは犬はどのように育てても犬は犬にしかならないが、人間は育て方次第で仏さまのような心を持った人にも、鬼のような心を持った人にもなります。
ある少年がホームレスを殺す事件があったとき、なぜ殺したのかと警察に聞かれたとき「だって、こいつら何の役にも立ってないじゃないか。」と答えました。
人の命を役に立つか立たないかの価値でしか見ていけない「ものさし」しかこの少年は持っていなかった。
仏さまの「ものさし」は私たちの命を光り輝いている命であると見てくださっています。
私の命は仏さまに願われ、またご先祖の方々に願われた命、親に願われた命であります。
少年は自分が奪った命が誰かに願われた命であるということを知らなかったのでしょう。
役に立つ、役に立たないの前に命そのものが願われた命であり、輝いている命です。
私たちが食べ物と呼んでいる命も。だから、食べるときに食べ物となったたくさんの生き物の命に「いただきます」と言うのです。
平佐西小学校にある里見弴の石碑『慈眼観』(ジゲンカン)。
「眼」と書いて「ゲン」と読むのが正しい読み方です。
この『慈眼観』は仏教語であり、先ほどの仏さまの「ものさし」と近い意味です。仏さまのお慈悲の眼で見たならば、それぞれ違った個性を輝いた素晴らしいものとして見ていけます。
なかなか人間が持てる眼ではありませんが、学ぶことはできます。
ですので、きっと平佐西小学校の先生たちは仏さまの『慈眼観』の精神を学んで、子どもたちと向き合っているのでしょう。
話が長くなってしまいましたが、のんの会では、仏さまの「ものさし」を子どもたちなりにいただいてほしいと考えています。
そして、それだけではなく、子どもたち自身の命もたくさんのものに支えられ、願われている命であることを伝えていければと思います。
「有難う」
「仕合わせ」
「御恩」
「おかげさま」
など
いただくかどうかは子どもたち次第ではありますが、
子どもの心を育てる手助けができればと「のんの会」が始まりました。
嬉しいことに、
のんの会の感想を書く紙に仏さまのお話したことについて感想を書いてくれる子もいます。
今日の様子。
ケイドロ
お焼香のお作法はもう完璧です。
おやつは射的で。
岐阜のS尊寺様で射的は人気らしく、取り入れてみました。
意外と難しい。。
おやつを食べてから、最後の一個を争奪戦。