2019年2月4日月曜日

保育園のコラム

今月のことばで載せたスヌーピーの言葉。

その言葉で保育園のコラムを書きました。







 「安心というのは車のうしろの席で眠ることさ。前の席には両親がいて、心配事はなにもない。でもね、ある時、その安心は消え去ってしまうんだ。君が前の席にいかなきゃならなくなるんだよ。そしてもういない両親の代わりに、君が誰かを安心させる側になるんだ。」

 スヌーピーに出てくる名言は多いが、この言葉もそのひとつ。

実は「安心」という言葉は仏教用語であり、仏教では「あんじん」と読みます。

「仏様を信じなさい。仏様を信じている。」とは浄土真宗では言いません。それは親子の関係に少し似ているのかもしれません。わざわざ親に「お父さんのことを信じているからね」「お母さんのことを信じているよ」と言う子どもはあまり見たことがないです。むしろ言われた場合は疑われていると感じた方がいいのかもしれません。

親の子どもに対する一途で見返りを求めない愛情がいつのまにやら子どもの安心となっていきます。この人だけは私のことを見ていてくれる、想ってくれているという安心の心が子どもの中に育っていくのでしょう。

そこにはもう「信じている」という言葉すらも必要でなくなるのです。それが本当の安心。

「子どものために。子どものために。」とただひたすらに愛情を注ぐ親が傍にいるだけで安心していけます。

みなさんが小さい頃そうだったように。

 






阿弥陀様が私のために常にはたらいてくださっている。そこに気付けた時に、安心をいただき、手を合わせる身にお育ていただくのでしょう。

そこに「信じている」という言葉は必要なく、その手を合わせ、お念仏申す身そのまんまがご信心の姿といただいていきます。

そして、こちらの心すらも問わないよという阿弥陀様。

ただ素直にお念仏申していきたいものですね。