「甲子園球児はみんな輝いてみえる。」と普段野球を観ない女性でも甲子園だけは観ているという方がいらっしゃいます。
少し、仏様の味わいに近いのかもしれません。
「甲子園球児はみんな輝いてみえる。」
その言葉は
勝者だけが輝いているという言葉ではないですね。
勝負事ですから、勝者も敗者も存在するのは当然。
しかし、この言葉には勝敗は関係ないですね。勝者であろうと敗者であろうとも。
球児たちがひたむきに夢を追いかけている姿。
球児たちが笑ったり泣いたりしている姿。
球児たちが白球を追いかけ、泥まみれになっている姿。
ベンチに入れなくても、一生懸命応援する三年生の姿。
球児一人一人にドラマがある。
一生懸命に最後まで野球と向き合う姿に「輝いている」という言葉が出るのでしょう。
勝敗に関係なく、球児そのものの姿が輝いてみえているのではないでしょうか。
悉皆金色。
仏様の眼から見たら、私たち一人一人がみんな輝いてみえているといいます。
私が成功したときも失敗したときも、辛いときも楽しいときも、周りに認められたときも、周りから冷たい眼でみられたときであろうと、
どんな私であっても私のことを素晴らしい命だとみてくださっています。
悉皆金色とみていける仏様の慈しみの眼。
真光寺の納骨堂『慈眼堂(ジゲンドウ)』。の由来でもあります。
まだ、平佐西小学校にある里見弴の書『慈眼観(ジゲンカン)』。(レプリカが慈眼堂の玄関正面にもあります。)
私たち一人一人にも球児と同じ様々なドラマがある。
その一人一人を輝いており素晴らしいものと認め、褒めてくださる仏様がいてくださります。
若院