朝、急に亡くなられた。満64歳。
「我や先人や先、
今日とも知らず明日とも知らず」
と、真光寺でのお通夜、葬儀のたびに『白骨の御文章』の拝読します。
西覚寺様でのお通夜のご縁でも拝読されていました。
何度読んでも、あぁそうだった。あぁそうだったと思うばかり。
普段の生活の中では忘れてしまいます。
ですので、
私自身も驚きを隠せない友人の父の死。
もちろん、私よりも本人たちの方がそうでありましょう。
しかし、寺族が有難いことは常々お聴聞させていただいているところ。
自坊で法座があるたびにどれだけ疲れていても座ってお聴聞させていただきます。
知らず知らず阿弥陀様にお育ていただいてます。
友人の泣いている姿を初めてみましたが、誰よりも大きな声でお念仏申してました。
南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏と。
そして、坊守さんの挨拶での
「お浄土にかえっていきました」
いつどんな状況になっても、何があっても、お浄土というぶれない依りどころをいただいています。
残念ながら、
悲しみはかわらないです。
苦しみもかわらないです。
しかし、その悲しみゆえに、苦しみゆえに、阿弥陀様は「死んで終わりではないよ」「お浄土に生まれるんだよ」とおっしゃってくださってます。
そのことばを味わい、いただけたときに初めて、悲しみの中からでも慶べます。
木下明水先生の話で
あるお寺さんが御門徒さんにアンケートをとったそうです。
「なぜ、お寺の法座にお聴聞にいらっしゃらないのですか?」
一番多い答え
「まだそれほど歳はとっていません」
という答え。
しかし、そう答えた最高年齢は87歳。
病気になってからでは遅いです。
今、自宅よりも病室で亡くなることが多い。
病気になってからではお寺にお参りできんのです。
真光寺の法座では、20代、30代の方も人数は少ないですがお聴聞にみえます。
できるだけ、元気なうちに、お聴聞の場に足を運んでいただきたくおもいます。
我や先人や先、今日とも知らず明日とも知らず
ですので、お早めに。他人事のように聞けるうちに。
若院