2018年11月29日木曜日

あなたのことを

『命は大切だ。命を大切に。
そんなこと何千何万回言われるより
「あなたが大切だ」
誰かがそう言ってくれたら
それだけで生きていける。』

                                                ACのCMの言葉




阿弥陀様は「一切衆生を救う」とおっしゃっています。

一切衆生とは生きとし生けるものすべて。









しかし、それは私一人のためのご本願です。




あなたが大切なんだよ。


あなたはあなたのままでいいんだよ。


あなたはそのまんまで金色に輝くいのちなんだよ。


あなたのいのちを死んで終わりのむなしいものとは決してさせないよ。


あなたを放っておくことができないよ。



そのご本願のお心をいただき、

親鸞聖人は「親鸞一人がためなりけり」といただいていかれました。





このACのCMの言葉を通して

私のための阿弥陀様だったのだなと味わうことです。


ご法話は他人事ではない。私一人のためといただいていきたいものです。

2018年11月27日火曜日

おみがきと役員会

おみがきと役員会。


報恩講法要にむけて。







真光寺の一年の行事で一番大切な法要。

よくお参りされるご縁ある方は身内の葬儀も報恩講を避けてくださる方もあります。

同じように報恩講を避けてくださいと言っているわけではないです。

それほどに大切な法要であると知っていただければ嬉しいです。
真光寺の門徒であるならば、一座でも座ってください。




12月11、12、13日と勤まります。
暇を作っていただき、お聴聞ください。




おかげさまでピカピカになりました。

2018年11月18日日曜日

第19回澍法会

11月11日。

第19回澍法会でした。
今回で四年目が終わる澍法会。

ご講師は服部法紹先生。


ご本願のお話でした。

祖父の話を通して。
祖父の願いは小さい頃からかけられていた。そのことの気付いたときに、安心をいただき、人生の方向性まで定めていただく。


阿弥陀様の願いも同じように常に私にはたらいてくださっています。
そこに気付くか気付かないか、感じるか感じないかで人生の方向性も変わっていくのでしょう。






昼座   コーヒーを楽しむ会(川内組)



夜座。



2018年11月12日月曜日

11月のんの会

今回ののんの会。

今回のお話は
キティちゃんの表情と阿弥陀様の表情。
その共通点のお話。








どうでしょうか?
わかりますか?











どちらもみる者の心によって見え方が違う。
悲しい時みたら、一緒に悲しんでくれているように。
嬉しい時にみたら、一緒に喜んでくれているように。

キティちゃんも阿弥陀様もその表現で、
依りそってくれている姿をあらわしているのでしょうね。







楠元地区の北野さんの畑に芋掘りへ。
天気にも恵まれ、楠元地区の方、大学生の娘さんなど前回以上にたくさんの方々のお世話にもなりました。

残念ながら、習い事や学校のレクレーションで来れない子どもも多かったですが、わいわいと楽しい会に。

おじさんたちの繰り出す楠元ギャグに子どもたちが反応できず、固まる。。

見ていて、面白かったです笑












2018年11月11日日曜日

保育園のコラム

保育園のコラム。



よろこび

「コンニャクは味もそっけもないものだと思って見ると、そうでしかないんです。でも、その奥に隠れた見えないものをしっかり見れば、そのすばらしさを感じることができるんです。」

高橋一生主演ドラマ『僕らは奇跡でできている』。仏教的な見方が多く、いつも楽しく拝見しているドラマ。そのドラマの一言です。

何気なく食べているコンニャク。その背景には、物語がありました。

コンニャク芋の状態では灰汁がひどくて食べることができない。その芋を先人たちは試行錯誤し、完成したものが今私たちがいただいているコンニャクです。コンニャクの背景には作った人の想いやご苦労があったのです。

これはコンニャクだけの話ではないですね。人参でもピーマンでも、牛肉や魚でも。

また、食べ物だけではない。人にも一人一人の背景に違った物語があります。その人に関わり、育て、愛した家族や友人や恩師がいます。

悩んだり苦しんだり、嬉しいことや悲しいことをそれぞれに経験して、今の私やあなたがいます。

その人の背景の物語を感じることができたときに、少しは人に優しくなれるのかもしれません。あの人を傷つけたら、きっと悲しむ方がいると気付き、思い留まることができるのかもしれません。

見えているものよりもその奥に隠された見えないものの方が大切なことが多いです。昔の方々はそのことを知っていました。その証拠に言葉として残っていますね。「お陰様」「有難う」「生前」などなど。

ののさまも見える部分の表面だけを捉えれば、ただの仏像であり、絵像です。

しかし、その背景の物語を感じていけたときに手を合わせずにはおれなかったと感じ、手を合わせることのなかったこの身が手を合わせる身にお育ていただいていけるのでしょう。

 









2018年11月6日火曜日

足元に

幸せの道は足元にあり 
            迷える人は遠くに求む     
                                      作者不明





日本は昔と比べて、だいぶ豊かになってます。
しかし、しあわせと感じてる人は昔と比べても対して変わらないみたいですね。むしろ、そうじゃなくなったというご門徒さんもいらっしゃいました。
豊かになって、失われたものがあるというご門徒さんまでいらっしゃる。。


そうかもしれません。











いつかのご法事のこと。

あるご門徒さんがおっしゃった。

「昔はな、食べ物がある。それだけで嬉しかったんじゃ。しかし、最近の若者は当たり前のように食べよる。昔のことを知ってる私は一食一食を有難くいただいてるよ」



そのご門徒さんの前に食事が出てきた。。。
その時の一言に皆がびっくり。

「なんだこれは。昨日も食べたじゃないか!」

親戚の方が一斉につっこむ。

「じいちゃん!ほら!自分の言葉!」
ゲラゲラみんな笑っていました。


昔の人ももう今の生活をしています。だからこそ、いつのまにか当たり前となっていく。他人のことはよく見えるけど、自分のことを見つめることは難しいですね。


私たちは迷ってます。
しかし、仏様とお出遇いし、仏法を鏡とし、自分を見つめ、足元を見つめなおしたときに、迷った中からでも光の中を歩んでおることに気付いていけるのでしょう。


『人の世は、上見れば上で 
                 下みれば下で 限りなし
 吾れ 半身不随なれど いまだ右手あり、
                       耳あり、右足あり
 吾れ 脳腫瘍なれど 
         いまだ味あり 色彩あり 音あり
            声あり 言葉あり 匂いあり
 それもやがて消えゆく身なれど 
 尚念仏あり み仏あり 大悲あり 浄土あり
 吾れ 尚 仕合わせなりき』  
                                                            (武内キヌエ)